
こんにちは、ボテンです。
“ベトちゃんドクちゃん”をご存知でしょうか。1981年、今から44年前に、ベトナムで体がつながった奇形の双子の兄弟が誕生しました。
日本では多くのメディアに取りあげられ、こんな子供が世界にいるのかと衝撃を受けたとともに、ベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられました。
2025年現在、弟のドクさんは44歳です。病院の事務と、ベトナムと日本との親善団体「ドク・ニホン」の仕事をしています。今一度 壮絶だった“結合双生児分離手術”を振り返り、ベトちゃんドクちゃんの内臓のこと、障害の原因や家族について、術後〜現在をみていきたいと思います。

ベトちゃんドクちゃんの内臓は?
1981年2月25日、ベトナム中部高原のコントゥム省で双子の男児“ベトちゃんドクちゃん”が誕生しました。そう呼ばれた2人は、下半身がつながった『結合双生児』でした。

グエン・ドクさん(弟)は「2人で一つが当たり前。特別だとは思っていなかった」と子供時代を振り返っています。
「これは僕のおもちゃだ」「違う、僕のだ」「こっちに行きたい」「いや、あっちだ」というようなけんかもしたそうですが、「いつも一緒ですごく楽しかった」そうです。
障害者の実態調査で1985年2月、ツーズー病院を訪れた藤本文朗さん(滋賀大名誉教授)は、配膳用の台車に乗った2人に笑みがこぼれたそうです。「障害を感じさせないほど活発で、キラキラと生命力にあふれていた」。
帰国後、募金活動で特製の車いすを贈ると、2人は病院内を自在に動き回り、ボール遊びにも興じたそうです。
ベトちゃんが急性脳症で危機的状況に
子供時代、ベトちゃんドクちゃんの楽しい日々は突然、終わりを告げました。1986年5月、兄・ベトさんが高熱に襲われ、意識を失いました。診断は「急性脳症」。ベトさんへの大量の投薬はドクさんにも影響を及ぼし「気分が悪く、痛みもあった」そうです。
高熱がドクさんにうつれば2人とも命を失いかねない。危機的な状況にも、医療事情の良くないベトナムでは、なす 術 がありませんでした。ツーズー病院から相談されたベトナム赤十字社は、日本赤十字社(日赤)に緊急援助を求めます。
日赤は当初支援に慎重でした。枯れ葉剤と結合双生児の因果関係は公式に証明されていない。「政治的にデリケートな問題をはらむ中での支援は、日赤の中立性を損なう恐れがあった」。当時、外事部次長だった近衛 忠輝 さんはそう説明しています。
日本の世論が日赤を動かしました。戦争の「爪痕」を強く感じさせる2人は、日本でも大きく報道されます。1986年6月、ホーチミンから日航機で来日し、東京・広尾の日赤医療センターに運ばれました。入院は約4か月に及び、精密検査や投薬が施されました。
日赤には寄付金が続々と集まり、日本の子供たちからは、1週間で100個のおもちゃやお菓子が届きました。ドクさんは元気を取り戻し、ベトさんも当面の危機を脱しましたが、意識レベルは低いままでした。
ベトナムへの帰国後も、ドクさんはベッドの上で過ごす日々を送りました。夜中にベトさんが発作を起こし、眠れない日もあったそうです。そんな生活が約2年続きました。
「ベトと離れたい」。そう願うのも無理はありませんでした。
内臓は一つを共有?or二つそれぞれにある?
誰も双子の分離手術など経験したことがないという前例のない手術に向けた準備が始まり、あらゆる分野から一流の医師の手術チームのメンバーが選出されました。2人が手術台に上がる日まで、最良の方法を模索して激しい議論のもと会議が重ねられました。
───どちらかを助けるか、両方助けるか?手術方法を模索
ベトさんの脳性麻痺は常に危険な状態と隣り合わせだったため、ドクさんを安全に助けるためベトさんを犠牲にするか、2人とも死亡してしまうかもしれないが2人とも助けるか、もしくはドクさんの生存を優先してベトさんにはできる限り手を尽くすことにするか、という多くの激しい議論が行われました。
───日本から持ち帰った2人の検査結果は腎臓が1つしか記されていなかった
レントゲン結果でも腎臓は1つしかなくかなり下方に位置していました。2人が1つの腎臓を共有していた場合、2人とも助けることは冒険に近いという状態です。
①腎臓を2つに分ける⇨2人とも手術直後に腎不全に陥る
②ドクさんに腎臓を、ベトさんには人工透析⇨分離手術でベトさんの傷跡が60~80cmに及ぶため人工透析は考えられない
③1つの腎臓を共有していた場合、ドクさんを助けるためベトさんを犠牲にすることが最も合理的な方法だ、と皆の意見が一致⇨そうしなければ、2人とも死亡してしまう
───最終的に日本で撮影したMRIとレントゲンの結果から2人がそれぞれ自分の腎臓を持っていることが判明
骨盤を分割する計画になりました。1か月以内に迫った手術を計画通り行うため、2人を模したマネキン人形を作り医師たちの手術のシミュレーションに役立てられたそうです。
結合双生児の原因と分離手術
結合双生児で生まれた原因
枯れ葉剤の被害|300万人苦しむ
ベトナムの被害者協会などによると、戦時下で約480万人が枯れ葉剤を浴びたそうです。その子や孫の代なども含めた約300万人が奇形やがんなどの疾病に苦しんでいると言います。
ベトナム政府は、枯れ葉剤が散布された地域にいた人や奇形など特定の病気や障害を持つ「第1世代」と、その子供で同様の症状がある「第2世代」の計30万人超を「枯れ葉剤被害者」と認定し、給付金を支給しています。ベトちゃんドクちゃんは第2世代にあたります。
アメリカは現在も、枯れ葉剤と人的被害の因果関係について、科学的な根拠がないとする姿勢を崩していません。
枯葉剤の影響
枯葉剤にはジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていました。ダイオキシン類の一種である2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) はマウスで催奇形性が出ることが実験で確認されていたため、TCDDによる奇形が疑われたが、ヒトに対する奇形性は2021年でも未確認です。
双生児の癒合は2000万分娩に1例ほどの発生確率と言われていますが、ベトナムでは25年間に30例を超えています。
ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものである。
母親が摂取
ベトちゃんドクちゃんの生まれたベトナム中部高原のコントゥム省は、1960~1970年代のベトナム戦争下で、枯葉剤が多量に散布された地域です。母・フエさんは山中のキャッサバ畑で、白っぽい粉をまく米軍機を目撃していたそうです。
フエさんは、終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていました。枯葉剤がまかれた井戸で水を飲んだといいます。
当時、枯れ葉剤の影響を取材する日本人フォトジャーナリストの中村梧郎さんは病院で目にした2人に「こんな子供がいるのか」と驚きを隠せなかったと言います。
分離手術
1988年3月に母親と再会しました。その後ベトさんが意識不明の重体となります。
1988年10月4日ベトナム南部ホーチミンのツーズー病院で、当時7歳だったベトちゃんドクちゃんは分離手術に臨みました。
ツーズー病院には夜明け前から約70人の医師や看護師、100人近い報道陣が集まっていました。1988年10月4日午前、2人の分離手術が始まりました。

手術室の中には無数の機材が置かれ、手術台の上は少しひんやりとしていたそうです。ドクさんには、麻酔で意識が途切れる前の記憶がわずかに残っており、怖さはなかったと振り返っています。
執刀したチャン・ドン・ア医師(82)は「世界中から注目され、失敗は許されなかった」と話しています。2人の分離は出生後からの懸案でした。
寝たきりのベトちゃん(兄)を犠牲にし、元気なドクさん(弟)を優先すべきか。2人とも生かす可能性を探るべきか――。倫理上の問題点に加え、親権者の許可もなかったため、ベトナム側は2人の日本滞在中の手術を望みましたが実現はしませんでした。
手術にあたり、ベトナムの医師たちは連日議論を重ねます。最終的に二つの腎臓と2本の脚はベトさんとドクさんが分け合い、一つしかない性器や肛門などは、ドクさんがもらうことに決まリました。
約15時間に及んだ手術が無事成功しました。日赤は医療機器を提供したほか、医師や技術者も派遣し、側面支援しました。

ツーズー病院で2人の主治医だったグエン・ティ・ゴック・フォン医師は手術を次のように言いました。

「つながったままでは、ドクは学校にも行けないし、友達にも会えない。ドクに自由で自立した生活を送らせるチャンスを与えられたことが、手術の最大の成果だった」
麻酔から目覚めると「不思議な感覚に襲われた」とドクさんは語っています。「いつも左隣にいた兄がいない。」訪日時に覚えた片言の日本語「ナンダカナ、ナンダカナ……」そうつぶやきました。「何が起きたのか」という意味だったそうです。
下腹部の激しい痛みは、兄弟の体が切り離された証となりました。「ようやく自由になれた」という喜びが込み上げると同時に、何とも言えない喪失感に包まれていたとドクさんは語っています。
ベトちゃんドクちゃんの家族

「化け物が生まれた。川岸に連れて行って燃やしてしまえ」。母のラム・ティ・フエさんは出生時、親戚の一人がそうまくし立てたと明かしています。
両親は2人をコントム病院に預けた後に離婚しました。
フエさんは「命を守るため、病院に預けた」と話しています。2人は首都ハノイのベトナム・東ドイツ友好病院(ベトドク病院、Viet Duc Hospital)に移され、病院名にちなみ、兄は「ベト」(越〈越南、ベトナム〉)、弟は「ドク」(徳〈徳国、東ドイツ〉)と名付けられました。
ベトナムでは当時、結合双生児はほかにもいましたが、多くが死産か、生後すぐに死亡していたそうです。ベトちゃんドクちゃんは、障害児のケアが充実する南部ホーチミンのツーズー病院に移送され、成人後も暮らす「家」となりました。
ベトちゃんドクちゃんの家族は3人です。(2025年12月現在)
🟡母:ラム・ティ・フエさん・推定71歳
🟡兄:グエン・ベトさん・26歳で死去
🟡弟:グエン・ドクさん・44歳
└2006年結婚(妻テュエンさん)・子供は男女の双子
※両親の離婚以外、父親に関する情報はありませんでした。
ベトちゃんドクちゃんの術後〜現在
【ドクさんの内容を🔵|母親の内容を🟣|ベトさんの内容を🟠】で分離手術後から現在まで(1988-2025年)をまとめました。
🔵分離後、ドクさんは障害児学校から中学校に入学
念願の学校に通い始めたものの、学んだことが覚えられず、授業についていけない。「投薬の影響だ」。医師からはそう説明されたと言います。
🔵ドクさんは中学校を離れ、コンピューターの職業訓練校へ
コンピュータプログラミングを学び、2003年にトゥーズー病院の事務員となります。事務業の傍らボランティア活動も行っています。
🟣分離手術のタイミングで母のフエさんと再会・その後関係に苦悩
母・フエさんは病院に住み込みで働き始めましたが、ドクさんは、耳慣れない方言を話す「初対面」の女性を「家族」と実感できず、今もぎこちなさが残っています。
🟠ベトさんは分離手術後、重い脳障害を抱え寝たきりの状態が続く
ドクさんは学校から帰ると声をかけ手を握り「一緒に遊ぼう」と言うと、笑いかけてくれる気がしてうれしかったと振り返っています。
🔵ドクさんは2006年12月16日、ボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエンと結婚

「私の愛は私が責任を持つ」という彼女の言葉に勇気付けられたそうです。自分の家で家族と食事し、自分のベッドで眠るのが、子供の頃からの夢だったというドクさん。結婚後、ローンで自宅を購入し病院を出ました。「いずれベトを引き取りたい」との思いがあったそうです。

🟠2007年10月6日1時(ベトナム標準時)、兄のベトさんが腎不全と肺炎の併発により26歳で死去
10月5日夜、ツーズー病院からドクさんの自宅に「大変なことになりそうだ」という電話がありました。駆けつけると、ベトさんは6日未明、静かに息を引き取りました。
数か月前から衰弱が始まっていたため、毎日病状を確認し、覚悟はしていたドクさんでしたが、ずっと一緒にいてくれると思っていただけに涙が止まらなかったと言います。
ベトさんは学校にも行けず、社会と関わりを持てないまま26歳で人生を終えました。「自分はベトを犠牲にここまで来た。これからはベトの分も生きよう」といなくなって思い知らされたそうです。

ドクさんは自分の体験を話すのが好きではありませんでしたが、ベトさんの死後、考えが変わりました。「自分が語ることに意味がある」。自ら設立した非営利組織で講演活動を行い、講演料を枯れ葉剤の被害者らに寄付しています。
🔵2009年10月、人工授精で双子の男女誕生
ドクさんは日本の支援に感謝し、息子をフーシー、娘をアンダオと名付けました。ベトナム語でそれぞれ「富士」と「桜」を意味します。「障害があったらどうしよう」。そうした懸念は今のところ 杞憂 に終わっています。

🔵2012年8月には東北を訪れ東日本大震災で被災した障害者たちと交流
🔵2017年3月、ベトナムを訪問した天皇・皇后と面会
🔵2017年4月、広島国際大学の客員教授に就任
🔵2019年1月6日、ホーチミン市に日本風の飲食店「ドク ニホン (Duc Nihon)」を開業したものの、2月中旬ドクさんの体調不良や場所代などを理由に閉店
🔵2020年8月28日、7月下旬に日本ベトナム友好協会大阪府連合会・同協会京都支部を通じ、不織布マスク1万7500枚を寄付

🔵ドクさんは現在、病院の事務と自身が理事長を務めるベトナムと日本との親善団体「ドク・ニホン」の仕事を掛け持つ。
亡き兄への思い
分離手術後、腫瘍や感染症で手術を繰り返しました。そのうち2017年には腎臓の治療で6回の手術を受けています。今も体調は優れず、「長くは生きられない」とも感じているそうです。
それでも自分を「幸運な男だ」と言います。分離手術を乗り越え、今も生きている。ベトさんがいつも見守ってくれていているからと語っています。
ベトちゃんドクちゃんについてまとめ
今回「ベトちゃんドクちゃんの内臓は?原因,家族,術後〜現在を調査【結合双生児分離手術】」と題し、ベトちゃんドクちゃんについて紹介しました。以下本記事のまとめです。
🟡誰も双子の分離手術など経験したことがない前例のない分離手術で、どちらかを助けるか、両方助けるか? ベトちゃんドクちゃんの内臓から手術方法の模索中は激しい議論のもと会議と検査が重ねられました。最終的に日本で撮影したMRIとレントゲンの結果から2人がそれぞれ自分の腎臓を持っていることが判明mし、骨盤を分割する計画になりました。
🟡結合双生児の原因は、1970年代のベトナム戦争下で枯葉剤が多量に散布されたことにあると言われています。分離手術はベトちゃんドクちゃんが7歳の1988年10月4日に、ベトナム南部ホーチミンのツーズー病院で行われました。
🟡ベトちゃんドクちゃんは生まれてすぐ病院に預けられ両親は離婚しました。母・ラム・ティ・フエさんは親として手術の確認が必要なため見つけ出され、再会しています。
🟡分離手術後、ベトちゃんは脳性麻痺でほぼ寝たきり状態になり、2007年腎不全と肺炎の併発により26歳で亡くなりました。ドクちゃんは中学校やコンピューターの職業訓練校で教育を受け、病院事務の仕事に就き、ボランティア活動もしてきました。2006年に結婚し、現在は男女の双子の父親でもあります。ベトちゃんに見守られながら一生懸命に人生を送っています。
二人の成長過程の中で、ベトさんの状態の方が悪く、26歳の若さで亡くなってしまったドクさんのショックの大きさは計り知れません。一家の大黒柱として稼ぎ養いながら、ベトさん分まで生きようと願うドクさんの姿が、優しく住みやすい平和な社会に繋がるよう祈るばかりです☆彡

最後まで読んでいただきありがとうございました(^-^)/~~~



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